釈迦三尊十羅刹女 肉筆 一点もの

釈迦三尊十羅刹女 肉筆 一点もの

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額寸法:55.3cm×40.5cm
画寸法:40.5cm×25.7cm


手描きで描かれた貴重な仏画です。百貨店美術画廊や美術部にてお取り扱いいただいている最上級の品質の作品がほとんどです。今やほとんどいなくなった超一流の仏画師が描いております。手描きですから全く同じものを描くことは出来ないため、ほとんどが一点ものとなります。売り切れの際はご容赦下さい。



釈迦三尊十羅刹女 肉筆 一点もの【仏像の天竺堂 仏教美術 中】



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チベット旅行記24 ツァーラン村の夏の景

ツァーラン村の夏の景
 さて私はこのツァーラン山村には一年ばかりも住んで居りましたから四時の変る光景はよく解りました。しかしこの辺はチベットの内地と同じことで夏と冬との二季に分つのが至当であります。実際もそうなって居りますので、この辺の土人でも春とか秋とかいうような名を知らぬ者が沢山あります。

この村の夏の景色の美しさはこの山人やまびとも自ら他に誇って居るように清くして美しい。麦畑は四方の白雪皚々がいがいたる雪峰の間に青々と快き光を放ち、その間には光沢ある薄桃色の蕎麦の花が今を盛りと咲き競う、彼方此方かなたこなたに蝴蝶こちょうの数々が翩々へんぺんとして花に戯れ空に舞い、雲雀ひばりはまた華蔵けぞう世界の音楽師は我のみぞと言わぬばかりに謡うて居る。

その愉快なる声に和して賤しずの女らが美しき声で謡う歌は楽器か、雲雀の声は歌か、いずれがいずれとも分ち難きに、なお天然の真妙を現実に顕わしたるカックー、カックーという美しき郭公ほととぎすの声はこれぞ宇宙自体真秘幽邃ゆうすいの消息であります。

冬の光景
 それからまた数里を隔てたる西の山々は皆白雪はくせつを戴いただいて居りますが、その頂きに夕日が入り掛りますとツァーラン村の東に列んで居る雪の峰々は夕日の反射で珊瑚さんご色に光って居る素晴らしさ。夕日がだんだん山の端はに入るに従って珊瑚の色は薄らいで黄金色となり、其色それもまた束つかの間まに薄らいで白銀しろがねの色となったかと思いますと、蒼空あおぞらは拭ぬぐうがごとく晴れ渡って一点の雲翳うんえいをも止めず、見惚みとれて居ります中に朧気おぼろげに幽邃ゆうすいなる高雪峰こうせつほういな兜卒天上とそつてんじょうの銀光殿ぎんこうでんかと思わるる峰の間から、幾千万の真珠を集めたかのごとき嫦娥つきが得もいわれぬ光を放ちつつ静かに姿を現わして、皚々がいがいたるヒマラヤの雪峰を照す光景は、氷〔宝〕光か何とも譬たとえようのない光景であります。

 冬の月夜は以上述べたようでありますが、さて雪が劇はげしく降り出して四方の雪峰に積るばかりでなく自分たちの居ります平原地にも一尺、二尺と積り三尺と重なり、かてて加えて暴風が恐ろしい勢いをもってその雪を吹き散らしあるいは空に捲まき上ぐるのみならず、雪峰より雪崩なだれ来る雪の瀾なみがその暴風と共に波を打って平原地を荒れ廻るその凄まじき声は、かのビンドラバンの大林の獣王なる幾千の大獅子の奮迅ふんじんして吼ほゆる声もかくやあらんかと思わるるばかりであります。この時に当ってもし旅人があるならば、その雪のために忽たちまち捲き込まれて幾千仞せんじんの幽谷に葬られてしまうということは珍しからぬことであります。

ナムチェワンデンペンダント【仏像の天竺堂 仏教美術 中】

降雪後の荒跡
 ある所の田畑は砂を掘り立てられて荒地となり、また平原のある所には雪の山を形造るというは、これ雪の波と暴風の過ぎ去った後の光景であります。その跡を見ても身の毛がよだつばかりであります。この時に〔暴雪風時に〕当り外に出でて有様を見ようと思いましたが、ただその恐ろしい吹雪の音を聞くばかりで顔は雪に打たれて身体は凍え手足は痺しびれ眼も開くことが容易に出来ないという有様でございますから、どんな有様か確しかと見定めることが出来ませぬ。

暴風降雪の過ぎ去った跡でさえなお雪を持て来る雲か、ただしは暴風を追う雲かは知らぬが、疎まばらに飛んで居るその下にごく細かな雪が煙のように飜とんで居ます。その切々の間から折々月影が朦朧もうろうと見えますが、その色は物凄き薄鼠色を現わして見るからがヒマラヤの凄絶、愴絶なる光景はかくもあるべきかと自ら驚きに堪えぬ程の凄い景色であります。

私はこういうような山家に一年ばかり住んで居ったのですから真に愉快の観念に満されて居りました。で日々の学問はどれだけ勉強しても少しも身体からだに応こたえるようなことはなかったです。

 空気は稀薄ですけれども非常に清浄しょうじょうな空気で、その上にごく成分に富んで居る麦焦むぎこがし粉を日に一度ずつどっさり喰って居ります。もっとも動物性の食物はただバタばかりでありますが、蕎麦そばのできる時分にはその新芽を酸乳さんにゅうでまぶしたちょうど白和しらあえのようなご馳走もありますので身体からだは至極しごく健全でありました。

陽暦の八月頃は蕎麦そばの花盛りで非常に綺麗きれいです。私はその時分に仏間ぶつまに閉じ籠って夕景までお経を読んで少し疲れて来たかと思いますと颯さっと吹き来る風の香が非常に馥こうばしい。何か知らんと思って窓を開けて見ますと雪山から吹き下おろす風が静かに蕎麦の花の上に波を打ちつつ渡って来る風でございました。その時に一首浮びました。

あやしさにかほる風上かざかみ眺ながむれば
    花の波立つ雪の山里やまざと

僧尼の奇習
 このツァーラン村の人口は二百五十名、その内で坊さんが百十四、五名、なおその内うち尼が五十名で男の坊さんは六十余名、いずれも旧教派の僧侶ですから酒を飲み肉を喰うことは平気です。尼はもちろん男を持つことは許さないのでありますけれども五十名の尼の中で男を持たぬのは一人だけ、また女に触れない坊さんは二人すなわちその寺のラマとその弟子一人だけでその外は皆汚れて居るという話です。

中には尼と坊さんと一緒になって居るのもあれば普通の娘と坊さんと一緒になって居るのもあり、また尼と在家の男と一緒になって居るのもあります。子が生れなければ別段人が何とも言わぬ。ところが子ができるといよいよ戒法に背いたということになるのです。実におかしい話ですけれどもその戒律に背いた時分にはシャクパすなわち懺悔ざんげをしなければならぬ。

 その懺悔の仕方がまた面白い。どっさりと酒を買うて百十四、五名のラマ及び尼さんを招き、銘々本堂の仏の前にずらりと並ならんで椀を持って居ります側からどしどし注ついで廻まわるのです。始めの間はいずれも殊勝しゅしょうらしくお経を読んで居りますがそろそろ酔の廻るに従ってお経の声は変じて管くだを捲く声となり、管を捲く声が変じて汚穢おわいを談ずる声となる。

その見苦しい事といったら何と評してよいか。始めて見た時分にはほとんど評のして見ようがなかったです。これが釈尊しゃくそんの弟子の集会日だとはどうしても思えなかった。で、その当事者たる尼と相手の男は別に寺に対して五円ずつの罰金を納めなければならぬ。

しかしその当事者がもし男僧でありますとその男僧と相手の女は十円ずつの罰金を納めなければならぬ。これは同胞の間で犯したような者だから罰金が高いとのことです。

 その外ほかに酒と肉とバタ茶との供養費が少くも二十五円や三十円は掛かかります。少し派手にやると四、五十円も掛るそうですがなるたけ派手に酒を飲ますのを名誉とし、またよく懺悔が届いたと言って誉めるです。

如来にょらいは酒はよくないものであると言って在家の人にさえ戒めた位でありますのにいかにツァーランの出家にもせよ、戒律を無にして仏の前で酒を飲み汚穢を談ずるというのは怪けしからぬ振舞でございます。私はこの有様を見た時ひそかに東方に向いわが堂々たる日本の仏教社会の僧侶諸君の多くも、あるいはこのツァーラン村の僧侶に対しどれだけの差をもって居らるるだろうかと思って実に悲しみました。


お面 一点もの【仏像の天竺堂 仏教美術 中】

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チベット旅行記23 博士との衝突

博士との衝突
 前回に述べた通り修辞学の上について博士と私との間に議論の起る事はしばしばで、ある時博士は怒って講義を罷やめ「あなたは確かに外道げどうの人でチベットの仏法を破壊するために来た悪魔である。いくら金を貰もらってもそういう悪魔に教えを説くことは出来ない」と言って二、三日講義を休んだことがあったです。

私は打ち棄てて置くとモンゴリア人の癖として怒ることも早い代りにまたなおることも早い。暫しばらくすると忘れてしまって「いやこの間のことはあなたの言うのも少しは道理があるようだ。だんだん考えて見ると私の主張が間違って居ったようだ。まあ講義をやろうじゃないか」というてむこうから折れて来ます。「それじゃあお願い申します」というてまた講義を聴きます。

 ある時などは無着菩薩むちゃくぼさつの論部の講義を聞いていました。その間博士のいわるるには「もはやこの菩薩の言うところより上に仏法はない」と断言しました。「いやそれは間違って居る。この菩薩は実に有難いけれども龍樹りゅうじゅ菩薩の主張された中道論には及ばない」といってだんだんその訳を説明しますと仕舞しまいには

「どうもチベット仏教に侮辱を加えた。なぜならばチベットでは無着菩薩を非常に尊ぶ。そりゃむろん龍樹菩薩も同じく尊んで居るけれども無着菩薩の仏法が低いというのは確かにあなたはチベット仏教に侮辱を加えたのである。そういう悪魔はぶん擲なぐる」というて前にあるレクシン(経帙きょうちつの締木)を取り左の手に私の胸倉を捉つかまえて私の頭顱あたまをめがけてぶん擲ろうとしたです。

 その時は私は大いに声を発して笑いました。するとその笑い声の奇態なるに驚いてレクシンを少し横にやったですけれども私の胸倉はやはり捉とらえて放さなかった。そこで私はいうた。「いやどうも無着の仏法を論じながらそんなに執着するというのは困ったものじゃないか」というと博士はその一言の尖先きっさきに打たれて捉えて居る手を放し歯を喰い縛って怒って居られた。

暫くするともう顔を見るのも厭だというてほとんど人事を弁わきまえて居らんような有様である。こりゃ大方モンゴリヤ人普通の癖かと思われる。実にモンゴリヤに居る人たちは大抵こういう人たちが多い。皆そうとは言えんが私の出遇うたモンゴリヤ人には怒り易い人が多くって閉口しました。

また怒るということは馬鹿の性癖であると悟りまして私はその後辱はずかしめに逢うても忍ぶという心を養成した訳でございます。こういう風で毎日六時間ずつ勉強して居りました。その間下調べといったらどうしても七時間掛からなければ終らんです。あるいは八時間九時間になることもある。そうすると日に十二時間あるいは十五時間位勉強する。その外に御膳を一度喰い茶を飲んでそうして散歩に出掛ける。

登山の稽古
 日曜日は全くの休みで山の中へ指して散歩に出掛ける。その時は山をどしどし駆け登る稽古をやりました。この一週間に一度の大運動、これは私がこれから雪山の道のない所を踰こえて行く下拵したごしらえをして置くのでそうして修練しませんければ、私は高い山に登って空気の稀薄な所に至って重い荷物を背負って行く事が到底出来ないという考えでありますから、用のないのにわざわざ石を背負って山の上へ登る稽古をしたです。

そして大いに肺部が強壮になって来たように思われました。実際身体も強壮でありました。ところでこの辺の人々の無上の楽しみはなんであるかといえば、女に戯れ肉を喰い酒を飲むことであります。

 その外には物観遊山ものみゆさんというような事もない。また何か面白い話を聞きに行くというたところがわずかにラマ摩尼マニのお説教を聞きに行く位の事で、それとても毎晩ある訳のものではない。夏は随分忙せわしいから肉慾上の事もよけいに起らんですけれども、夏過ぎて少し暇になりますと彼らが打寄って話をすることは穢けがらわしい男女間の話よりほかにはなんにもございません。

プルパ(金剛厥)【仏像の天竺堂 仏教美術 中】

ちょっと考えて見るとほとんど動物のようです。心の中に思って居る事は喰う事と寝る事だけであって着物はどんな汚ない物を着て居っても構かまわない。それも年に一度ずつ新しい物と取り替えるに過ぎぬからバタと垢あかで黒光りに光って居るです。なお一年よりも二年着て居れば豪えらいと讃められるような風習であります。その間一度でも洗うという事はない。

 身はそんなに穢けがらわしゅうて居るけれども喰う物と寝る事〔房事〕には大変骨を折ります。で、その心に熱心に欲するところは男子は女子を求め女子は男子を求める事で、これは老人から少年少女に至るまでそういう有様ですから婬風いんぷうは実に盛んであります。私はそういうような不潔な事をやる人と交際つきあわんものですから一向始めの内は様子が知れなかった。

日曜日には休みという事を知って居る村人らは折々病気を診て貰いに来ることがある。もう彼らはラマであると言えば未来の事を知って居るかのように思うて未来記を聞きに来る者もあります。自分の行末はどうなりましょうか、あるいはこれから先どういう風にしたらよいかと尋ねる。

どの位断ことわってもそれをいわなければ何遍も出て来てこちらの時間が費ついえて誠に困るから、まずどっちとも付かぬような返事をしてやるとそれで満足して帰る、どういう心の置き方かこちらはわからんような事を言ってやるのですがそれがむこうにはわかるように聞こえるものと見えます。そう言うような風にして勉強して居る内に私は大変

村の評判 になりました。あのラマはただ書物を読むだけでその外には考え事ばかりして居られる。そうしてまた山の中へ行っても坐禅をして考えてばかり居る。あれはひととおりの人でないというような種々の評判が立ちました。その中に薬を遣やった病人が癒なおったとかいうような事で、それがまた評判になる。何か話種〔話題〕のない村の内では私の事が話種〔話題〕の主なるものになって、そうして私と博士との間について色々の想像話を逞たくましゅうするような事があります。

それはなぜかというと私が博士と議論の揚句擲なぐられ掛けたその時に、大いに笑ったその声が四隣を驚かした事もあり、またただ議論をして居る時でも互いに大きな声をして居るものですから、近隣の村人などは博士とシナのラマと今日喧嘩をして居るというて大いに心配して外で聞いて居るです。ところがしまいには笑って事なく済んでしまう事もある。

 そういう事が度々たびたびあって度々驚かされて居るものですからその噂うわさがなかなか面白い。あの博士は仏法の事で議論して居るのではない。あれはこの間シナのラマがどこそこの貧乏人に喰う物をやった。それを自分の方にくれないというてああいう事をしたのであろうとか、あるいはまたこの間私共の方では麦を一升上げに行ったところが、その麦を乞食に分けてやってしまった。

それだから大方博士が怒ってああいう事をしたんだろうというような詰らん事ばかりが評判になって居る。それも私は知らなかったが、私の住んで居る家の娘子は長くそこに住むに随って茶などをくれたり、あるいはその村で最も上菓子と珍重ちんちょうせるところの蕎麦そばパンを拵こしらえて折々私にくれるです。

ある時もそういう物を持って来て「この間あなたとゲーセと大喧嘩おおげんかなされましたが、ありゃあなたがどこそこの乞食に金を遣ったからそれでゲーセが怒ったという世間の評判です」というような事をいって一々私に話をしてくれます。

 それで私はなるほど世間というものは妙なものだ。我々は自分に考えて居る事しか世間の人の心中を忖はかる事は出来んが、実に面白いものだという感覚が起りました。ところでおよそこの世の中というものは純粋の親切ばかりで交際するということはほとんどむつかしいものと見える。

利益の上の関係あるいは愛情の関係がなければ、交際は円満にして行くことはむつかしいものと見える。ツァーラン村に居る間に深くその事を感じました。私はただ普通どの人に対しても親切に尽すというつもりで居るのです。ところがその親切を誤解して私の夢にも思い寄らぬ事を言う者がありましたがそれは余りくだくだしゅうございますから省略致します。

マニ車 本式【仏像の天竺堂 仏教美術 中】

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チベット旅行記22 ツァーランの風俗

ツァーランの風俗

 私は博士と共にいよいよ雪の山を踰こえて行きますと広い原の入口に門が立ってあります。それは別段軍事上の目的で建てられたものでなくて、宗教上その門に仏を祭りあるいは神を祭りその村に悪神等の入り込まないように建ててあるところのものであります。

ですから別段に門の両側に高塀があるとかなんとかいうようなことはございませぬ。ただ門だけ建てられてあるのです。その門の高さは四間ばかり、それに相応した大きさの石造りでありましてちょうど我が国における楼門に似て居ります。

その門を通り抜けて半里ばかり行くとツァーラン村に着きました。博士はその村のある大きな家へ私を案内した。それがその村の長の家であります。前から我々が行くということを知らしてあったものと見えて、十四、五名も迎えに出て居りまして我々を導いて入ったです。

チベットでもこの辺でも同じ事ですが少しよい家では別に仏堂を建ててあります。というのはこの辺でごく尊いお客さんといえばまずラマであります。そのラマを自分の住んで居る所に置くというのは穢けがれるだろうというところから、特に仏堂を設けて仏を祭ると共に自分の最も尊敬すべきラマの接待所にしてあるのです。

 その堂の建て方も自分の家よりはよほど丁寧ていねいで中も綺麗になって居ります。その仏壇〔仏堂〕の傍かたわらには特別に経蔵を設けまた仏像の中に経文を備えてあるところもある。これは何も自分たちが読むという目的よりは功徳くどくのためすなわち仏陀に供養くようすると同一の敬礼をもって供養するためであります。

いわゆる臨済りんざいの三乗十二分教もその真を知らざれば故紙ほごに等しというような考えはチベット人には全く無い。解っても解らいでも仏法〔経〕に対してはただこれを尊崇そんそうするというのがこの辺の人の習慣であります。その仏堂に私は住み込むことになりました。その仏堂の向いにまた小さな離れ家があって博士はそこに住んで居ります。

で博士と私との御膳を拵こしらえるために一人の下僕しもべを置きました。その村長の名はニェルバ・タルボと言って誠に温順な人で、その妻君は疾とくに逝かくれて二人の娘があるです。その頃姉は二十二、三で妹は十七、八、この二人の娘は日々男衆や女衆を使って牧畜あるいは農業をやって居る。その働きはなかなか感心なものです。

さてこの村人の楽しみは何かというとやはり夜分歌を謡い踊を踊る位のもので、その外には折々摩尼講マニこうまあ日本で言えば念仏講とか観音講とかいうようなものでありまして、その摩尼講にラマ摩尼が出て昔の高僧とか仏法守護の大王の伝記などを詳しく説き聞かせるですが、それを聞きに行くのが無上の楽しみであるらしい。

汚穢おわいの習慣の修練
 チベット人のごとくこの辺の人たちは非常に不潔であるいはラサ府の人間よりもこの辺の人間の方がなお汚穢おわいです。ラサ府では折々洗うことがありますけれどもこの辺では私が一年ばかり居った間に二度位洗うのを見た位のものです。

それとてもすっかり身体を洗うのでなく顔と首筋を洗うだけですから、身体からだは真っ黒で見るからが嫌に黒く光って居ります。よく洗えば随分色の白い人もあるですが、もしもこざっぱりと洗って綺麗な顔をして居るとあれは不潔の女であるといって笑うです。

ここで私はチベットにおいての汚ない事に堪える習慣をよほど養いました。もしここで充分その汚ない事に慣れなかったならば私はチベットに行ってよう物を喰い得なかったかも知れぬ。

 ここでもやはり手洟てばなをかんだ手で直じかに椀を拭ぬぐってその椀に茶を注いでくれます。それを嫌がって飲まぬとむこうで忌いみ嫌きらいますから忍んで飲まねばならぬような始末。実際はそれよりも酷い事があって実に言うに堪えない、見るに堪えない汚ない事をやります。

折々はその習慣に慣れようと思いましてもいかにも不潔で窃ひそかに自分で茶椀なりあるいは椀なりを洗って喰うような事もあります。で私の仕事というのは毎日朝三時間ずつ博士に就いて講義を聞くだけです。

しかし朝三時間の講義はむつかしいものを学んで居るから下調べもし復習もしなければならぬけれども、昼からの三時間はごくやさしい楽しみ半分の修辞学とかあるいは習字作文等が主ですからその時は折々議論をすることもあるのです。

阿弥陀如来 肉筆一点もの【仏像の天竺堂 仏教美術 中】

奇怪なる修辞学
 それはチベットの修辞学中には仏教上の事が沢山入って居ります。それも普通の仏説を応用して居るならば少しも怪しむに足らないですが、チベットには一種不可思議に卑猥ひわいなる宗教がありまして、その宗教の真理を修辞学に応用してあるのでございます。

しこうして男女間の情交を説くのに仏と多羅尼タラニ、あるいは独鈷どくこと蓮華れんげとの関係をもってし、またその蓮華の露の働きを男女の関係に及ぼしていろいろの説明をし、そうしてそのごく穢けがらわしい関係からして清浄無垢むくの悟りを開かしむるというような所に落し込んであるのです。

こんな修辞学は恐らく昔はインドに在ったでしょうが、今はチベットに残って居るだけのことであろうと思われる。私は修辞学を非常に研究しましたが何しろそういう説明の仕方ですから博士と意見が合わんでしばしば激論したのであります。この両性交合教の開山は蓮華生れんげしょうという僧侶でありますが肉も喰えば酒も飲み八人の妻君を持って居った人です。その僧を清浄なる僧侶とし救世主として尊崇したのであります。

 これは恐らく悪魔の大王が仏法を破滅するためにこの世に降くだりかかる教えを説かれたものであろうと私は断定して居ります。ですから私は博士と意見は合わないので、博士は蓮華生その人は仏の化身であるということを信じて居ります。

またこの辺の土民はこの穢わしい蓮華生の仏教を盲信することは実に酷ひどいもので、全くこの辺に行われて居るのは旧教ばかりで新教派は一人もない。

博士はもと新教派の教育を受けたる清浄無垢の僧侶で、二十年間セラ大学で修行を為なし博士の名を得た人であるということは確かですけれども、女のために一旦その身を誤りそれがために蒙古に帰ることが出来ず、といってラサに住して居るのも面目ないというところからこういう山家に零落おちぶれて、不潔な婦女子などを相手にして居るのだと村人はいいましたが、しかし非常に博学の人でありました。


マニ車 銅造彫金仕上げ 一点もの【仏像の天竺堂 仏教美術 中】

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チベット旅行記21 

間道かんどうの守備
 私は荷持にもち二人を気遣きづかいながら四十里の路を六日間かかってヒマラヤ山中のツクジェという村に着きました。そこにはハルカマン・スッバという知事が居りますがその知事の宅へギャア・ラマの紹介で泊ることになりました。

其家そこへ泊って一両日経たちますとギャア・ラマの好意で送られた下僕しもべは、まあこの塩梅あんばいなら大丈夫でございましょうといって帰ってしまいました。けれども私はこの二人の下僕を追い払わなくてはチベット行を全うすることができぬと案じて居る矢先に、いろいろ話を聞きますとこれから北のロー州を過ぎて行く間道にはこの三ヵ月以前からチベット政府が五名の兵隊を置いて道を守らしむる事になったから、外国人あるいは風の変った人間は誰も入ることが出来ぬようになったという。

それはこの間道ばかりでなくいずれの間道でも、人の一人でも通って来られるような所にはすべて五名ずつの兵隊に道を守らしむる事になったという噂うわさ、だんだん聞いて見ると事実で、とてもこの間道からチベット高原へ進むことが出来ぬようになりました。

危険極まる従僕を解雇す
 ここに蒙古の博士でセーラブ・ギャルツァン(慧幢えどう)というお方が来て居りますが、なかなかの学者で僧侶そうりょらに経文を教えて居る傍かたわら医者の真似をして居ります。その人がしばしば私の所へ遊びに来て話をしました。

ある夜荷持二人が酒宴をして居りました揚句あげく喧嘩を始め、いよいよ悪漢の本性顕わして互いにその身の悪事を罵ののしり合って居る所を聞くと、老婆の言う通りの悪漢でその互いに言うところを聞きますと、手前は強盗をして人を殺したに似合わず表部は猫のように柔和な姿をして居るが、時が来たら鼠を掴つかむようにシナのラマに荒い仕事をしようと考えて我を邪魔にするのであろうといいますと、一方はそりゃ手前の考えを手前にいって居るのだからよしおれが邪魔になれば退いてやろうというような事で、非常な争いをした揚句私の許もとに来て、彼が居れば私に暇をくれと互いに言いましたから、それを倖さいわいに相当の礼金を遣つかわして断然その二人を解雇し、老婆にも小遣いとカタを与えて放してしまいました。

 ところで私の執るべき方針は今直ただちに西北原へ進んだところが到底行けるものでない、といって後へ帰ることはむろん出来ない。なんとか方法を運めぐらさねばならぬと考えて居ります中うちに、この間から私の所へ度々たびたび遊びに来る慧幢ギャルツァン博士はただに仏教上の学問あるばかりでなく文学上の学問もありますから、博士と相談の上私は博士にシナ仏教の説明をし博士は私にチベット仏教及び文学を教えるという約束で、博士の住んで居るロー、ツァーラン指して参ることにしました。その途中のチュミク・ギャーツァ(百の泉という意味)すなわちサンスクリット語にいわゆるムクテナートと言って居る霊跡に参詣致しました。

ヒマラヤ山中の霊跡
 ムクテナートというのは首の蔵おさめ所という意味、すなわちマハーデーバの首を蔵めた所であるといって今インド教では名高い霊跡としインド教徒も仏教徒も共に霊跡として尊崇して居ります。百の泉というのは申すまでもなく百の泉から百条の水が流れ出るというところからそういう名を付けたので、なおその百泉という所にはサーラ・メーバル(土に火が燃る)、チュラ・メーバル(水に火が燃る)、ドーラ・メーバル(石に火が燃る)という名所があってなかなか名高い。

どんな所かと思って行って見ましたところが、実に馬鹿気た話で縦二尺に横一尺位の岩の間に美しい泉がある。その水平線より少し上の岩の間に穴があってその穴から火が出るのですが、その火が水の上を匐はって上に騰あがるのです。愚民がこれを見ると全く水の中から火が燃えて出るように見えるのです。

その他も皆そんなもので一向不思議ふしぎな事はないが、この辺の山の一体の形を見ますと古昔むかしは噴火山があったのじゃああるまいかと思われるような形跡けいせきもあります。というのは雪の積つもってある向う側には昔の噴火口の跡らしき池があるのみならず、この辺の岩は普通の山の岩と違って皆噴火山の岩であるからです。そこの参詣を済まし山を降ってカリガンガーという川の端に出て一夜を明かしました。


釈迦如来立像 銅色【仏像の天竺堂 仏教美術 中】


馬を泥中に救う
 その翌日川に沿そうて上りました。浅き砂底の川を対むこうに渡らんとて乗馬のまま川に入りますと、馬は二足三足進んで深き泥の中に腹を着くまで陥おちいりました。私は早速馬より飛び下りましたが博士も馬上で驚いて居られたが、下馬していいますには馬はとても駄目だがあの荷物を取る工夫はあるまいかといわれました。

そこで私は直すぐに着物を脱いで山に少しく上りて大いなる石を一つ馬の居る側に擲なげつけましたが、馬は自分を打たるると思ってかびくびくして居りました。こんな事をしますのは大きな石を沢山泥の中へ入れて馬上の荷物を取るための足場を造るつもりです。

ところでまた大きな石を前の石の上に擲なげんとしますと馬は私の様子を見て非常に恐れて居りましたが、やがてズドンと一つ擲げますと馬は大変な勢いで飛び上って対むこうの岸へ着きました。それから博士と共に博士の馬を渡す道造りに大石を泥中に沢山擲なげました。

およそ三、四時間土木業をやってようやくの事で自分らと博士の馬をも対岸に渡すことが出来ました。それからサーマル(赤土)という村に着きその翌日山の中をだんだん北へ北へと行きました。いわゆるドーラギリーの北の方に進んで行くのであります。

 ツクジェ村から下の山には松、杉の類がありましたけれどもこの辺にはそういう樹はなくてただ檜葉〔ねずの木〕が沢山生えて居るだけです。その檜葉ひばとても高さ一丈五、六尺から二丈位の樹があるだけでその外ほかには灌木かんぼくしかございませぬ。そういう雪山の中を五、六里ばかり参りますとキルンという小村がありますが、その村には柳の樹が大分に生えて居りました。

外には別に変ったものはございませぬ。で、この辺に住んで居るのはチベット人ばかりでネパール種族は居りませぬ。ですからその屋根の隅々には皆白い旗を立ててありましてその旗には真言の文句を木版摺ずりにしてあります。

これはチベットのどこへ行っても見ることが出来るので、たといテントを張ってある所でもそういうような旗が立ててあります。その村を通り抜けてだんだん北へ北へと雪山を進んで行きますとちょうど日が暮れたです。深い谷間には檜葉ひばの木が沢山生えて居りますが杜鵑ほととぎすは月の出たのを悦びてか幽邃ゆうすいなる谷の間より美しい声を放って居ります。

行き暮れて月に宿らむ雪山ゆきやまの淋さびしき空に杜鵑ほととぎす啼なく

ツァーラン村
 やがてキミイ(福泉)という雪山の間の小村に着いて宿り、その翌日北に進んで行くこと四里ばかりにしてツァーラン村が見えます。もはやこの辺は西北原へ一日足らずで出られる所でありますから、雪山とはいいながらほぼ西北原と変らぬような有様で山はなんとなく淋しく樹は見えませぬ。私のツァーランに着いたのはちょうど五月中頃でございましたからようやく麦を蒔まき付けた位でした。

村の様子を見ますと四方は皆雪山をもって繞めぐらし東西四里半、南北はごく広い所で一里半程の高原地にある村落で、しかして西の雪峰から東の方の谷間へかけてごく緩い斜線状になって居りますが、その斜線状に沿うて西の雪峰から流れ来る川があります。これがすなわちカリガンガーという大いなる川の源をなして居るのであります。

 その川はツァーランという村の下を廻って南の雪峰の方に流れ去りその河岸かがんの遙か上に村があるのですが、その村のある一部に小高い山がある。その山の上にロー州の王の住んで居る城があります。ゴルカ種族がネパールを統一するまではこのロー州もやはり独立して居りました。

その城と相対して大分大きな寺がありますが、これはチベットの旧教の一派でカルジクパ〔カーギュッパ〕という宗派に属して居るのです。で、その寺はやはりチベット風の四角形の石造りの堂で赤塗になって居ります。その本堂に沿うて建てられてある白塗の石造りの家屋はすなわち僧舎であります。その城と寺との西側の平地の間に当り大小三十軒ばかりの村が見えてあります。


観音菩薩(銅色)【仏像の天竺堂 仏教美術 中】


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チベット旅行記20 入蔵の旅立

入蔵の旅立

 道はあらかじめわかりましたが何も口実なしにその道を通って行くと決めますと、どうもこいつは怪しい男であるという疑いをブッダ・バッザラ師に起される虞おそれがあります。しかるにここに口実として甚だよい材料を見出した。というのは、マナサルワ湖は経文にいわゆる阿耨達池アノクタッチであるということについては学問上種々しゅじゅの異論がありますが、とにかく普通の説に従えば阿耨達池であるという。

その阿耨達池の傍に在る天然の曼陀羅まんだらなるマウント・カイラスは仏教の霊跡でありますから、その霊跡に参詣さんけいするという口実を設けて行くに若しくはないと考えました。で、ある時にギャア・ラマに向い

「私は折角ここまで来たのにむざむざチベットを経へてシナに帰るというのは誠に残念なことである。シナの経文の中にチベットにはマパム・ユムツォすなわち阿耨達池があって、その岸に聳そびえて居る山を蔵語でカン・リンボチェといって居るが、私はその山に参詣したいという願心がんしんが起ったからどんな難儀をしてもちょっと〔ぜひ〕行ってみたいと思うがどうでしょう。荷持にもちを頼むことが出来ますまいか」

と言いますとギャア・ラマは
「やあそれは結構けっこうな事だがお止しなさるがよろしい。行く道は大変困難でもあるし殊に西北原には道などはありはしない。私も是非一遍参詣したいと思って居るけれども第一容易に食物を得られないから行くには充分食物の用意もして行かねばならぬ。それに強盗が沢山居るから多くの同勢を連れて行かないと殺されてしまう。そんな訳で今まで延びて居るですがどうも荷持の一人や二人連れて行くのはつまり殺されに行くようなものですからおよしなさるがよろしい」と言ってだんだん私に説き勧められた。

 そこで私は「そりゃ殺されに行って死んでしまえばそれで役目が済みます。もと生れて来た限りにはいずれとも死んで行くのです。まず仏法のありがたい所に参詣さんけいするために殺されるというような事はこりゃ実にめでたい、結構な事であります。私は死ぬことはなんとも思わない。もし死ぬ時が来ればチベットの曠原こうげんで泥棒に殺されないでもここに豊かに暮して居っても死ぬにきまって居るから決して構わぬ。どうか荷持にもちを世話をして戴きたい」と言ってだんだん私の決心を話しますと

「それほどまでの御決心なら仕方がないからまあ一つ見つけましょう」と言って人をかれこれ捜してくれました。ところがカムという国すなわち泥棒の本場の国の人間ですけれども、大分に正直らしい巡礼を二人頼んでくれた。それに巡礼のお婆さんがある。

そのお婆さんは六十五、六ですけれどもなかなか壮健たっしゃで山を駈かけ歩くことが出来ます。その三人と出掛けることになりましたが、ギャア・ラマはこの二人の荷持は親切にあなたに仕えるかどうかと見届けるためにツクジェという所まで送らせますからと言って人を一人つけてくれました。

山中の花の都
 主従五人、私はギャア・ラマから買った白馬に乗って出掛けました。なかなか良い馬で、嶮岨けんそな坂でもほとんど人が手足で登り駆けるかのごとくうまく進みました。ちょうど三月初めっ方かたにカトマンズを出て山の中を西北に進み一日坂を登ってはまた一日降るというような都合で、里程およそ八十五里、十日の日数を経てポカラという山間の都会に着きました。

ポカラという所はネパール山中では甚だ美しい都会であたかも日本の山水明媚めいびなる中に別荘が沢山建ててあるかのごとくに見えます。竹の林に花の山、新緑鬱茂うつもして居るその上に、魚尾雪峯マチプサより流れ来る水は都会の周囲を流れて遠く山間に流れ去るという。

私が通った中ではネパール第一の美しい都会でありますが、その水の色は米の洗汁とぎじるのような色です。これは多分山間の土を溶かして来るのでございましょう。この都会はネパール国中で一番物価の安い所で、米などはごく安いのは二十五銭で四升位、普通二升五合位、それに準じて物も総すべて安い。

物産は銅で製した器具類。私はテントを拵こしらえる必要がありますので六日ばかり逗留しましたが、二十五ルピー(一ルピーは六十七銭)で中で煮炊にたきの出来る位の広さのテントが出来ました。

 それからポカラを後にして北方に進みましたがなかなか嶮けわしい山で馬に乗れない場所が沢山あるのです。それゆえにまず馬をわざわざ谷間に廻して半日位歩いてまた馬に乗るというような都合にして行ったです。ある日の事私の荷持は先に立ち馬を導いてくれるものですから、私は別段心も留とめず行く先々の事を考えつつ馬に乗って進んで行きますと自分の眼先に樹の枝が横たわって居ります。

ハッと思ってその枝を避よけようとする途端とたんに馬は進む。私は仰向けになるという訳でとうとう馬から落ちてしまいました。幸いに馬も気がついたと見えて走り上らずにジーッと踏み止まり、私もまた手綱たづなを放さずにしかと握って居りましたから、岩で痛く腰を打っただけで谷へは落ちませんでしたが、もしその時馬が驚いて駈かけ出すか、私が手綱を放しますと

千仞せんじんの谷間の鬼 と消えてしまったのでございます。これはいい塩梅あんばいだと思って立とうとするけれども、よほど酷ひどく腰を打ったと見えてどうしても立つことが出来ない。で、その山の頂上まで十丁ちょう程ほどある所を下僕しもべ二人に負おぶさって昇りましたけれども、何分にも痛くて動けませんので二日ばかり山中に逗留とうりゅういたし、幸いにカンプラチンキを持って居りましたから自分でよく腰を揉もんでそれを塗ぬったり何かしたので、格別の事もなく治ってしまいました。

三日目に馬は谷間の方から先に廻し、私達は世に謂いう深山幽谷ゆうこくというのは真にこういう所を言うのであろうというような恐ろしい深山幽谷の間を歩いて参りますと、カックー、カックーという杜鵑ほととぎすの声が幾度か聞こえます。その時に

ヒマラヤの樹この間ま岩間いはまの羊腸折つづらをり
    うらさびしきに杜鵑ほととぎす啼なく

 そういう淋さびしい山の間あいを通って参りましたが、人は一日二日交わって居る間は誰も慎んで居りますからその性質等も分らんけれども、長く伴うに従って自おのずからその人の性質も現われて来るもので、二人の荷持にもちのうち一人は非常に大きな男でごく果断な質たち、一人は甚だ温順ですがちょっと読み書きも出来るという訳で大分に自負心も強い。

それが果断の人の気に喰わないで折々衝突が起ります。お婆さんの巡礼は正直な人で二人の荷持については何事も知って居るらしく見えます。私は誰にも同じように付き合って居ります。殊にそのお婆さんは大変に酒好きですから宿場に着くと荷持は申すに及ばずそのお婆さんにも同じように買って遣やります。またいろいろ人からくれた物などがあると、殊に老人は可哀かあいそうですから沢山たくさん遣るようにして居りました。

老婆はそんな事に感じたのかあるいはまた私が日に一度ずつ飯を喰って少しも肉類を喰くわぬということに感じたものか、何しろ大変私を敬うやもうて少しも巡礼視するような風が見えませんでした。で、そのお婆さんは何か私に秘密ないしょで言いたいような素振そぶりが見えますが他の二人の男を憚はばかって居るらしい。

 それから私が気転を利かしてある日お婆さんを先に立たして私は馬、二人の下僕しもべは徒歩かちで出掛けましたが、彼らは荷を背負って居るのですから大分私より遅れ、私はとうとうお婆さんに追い付きまして共に話しつつ行きますとそのお婆さんは「あの二人の人たちはよほど後あとですか」という。

「そうさ二里位遅れて居るかも知れぬ。」
「実はこの間からあなたに内々ないない申し上げたいと思って居った事ですが、実は彼の二人の荷持はあなたの身にとっては恐ろしい人です。一人はカムで人を殺しまた強盗をした人です。もう一人はそれほどにもないけれども喧嘩けんかをして人を殺した事のある人でどうせ二人とも人を殺すのを何とも思いはしません。しかし一人の温順な方はまさかそんな事はありますまいが、一人の方はあなたが西北原へお越しになればきっとあなたを殺してお金や何かを取るに違いありません。どうもあなたのような御親切な尊いお方がああいう悪い人のために殺されるかと思うとお気の毒で堪たまりませんからお話し致します」と言う。

「なにそんな事があるものか。あの人たちは大変正直な人だ」といいますと、老婆は本気になりまして「南無三宝クンジョスム、もしこの事が偽いつわりであるならば私に死を賜たまえ」と証拠立てたです。これはチベット人の間に普通に行われて居る誓いの仕方であります。その上お婆さんのいうことは偽りであろうとも思われず、どうもその様子を見るに全く事実らしい。はて困った事が出来たとこれにはなんとか方法を廻めぐらさねばならぬと考えました。



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掛け軸 文殊菩薩(綿本)1点もの肉筆

掛け軸 文殊菩薩(綿本)1点もの肉筆

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軸寸法 画寸法
縦 190cm 縦   cm
横  60cm 横   cm

作者:カルマ・ラマ

あらゆる困難や障壁を乗り越える智慧をお授け下さるのが
文殊菩薩です。

通常は獅子に乗る姿で現され、兄弟分の普賢菩薩と共に
釈迦如来の脇侍としてひかえております。
またお受験の仏さまとして、信仰を集めております。

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チベット旅行記19 ヤンブー・チョェテンの由来

ヤンブー・チョェテンの由来
 カトマンズの大塔だいとう村はいわゆるボーダという名で迦葉波仏陀カッサパぶっだの大塔の周囲を廻って居るのであります。ブッダ・バッザラ師はすなわちこの村の長でまた大塔の主人であるです。このボーダの大塔をチベット語でヤンブー・チョェテン・チェンボという。

ヤンブーはカトマンズの総称でチョェテン・チェンボというのは大塔というチベット語であります。チベットでは大なる塔のある所は直にチョェテン・チェンボというて居りますが、この塔の本当の名はチャー・ルン・カーショル・チョェテン・チェンボといいますので、これを訳すると「成すことを許すと命じおわれり〔おわる大塔〕」という意味でこのような名の起ったのには因縁いんねんのあることで、この大塔の縁起によりますと釈迦牟尼仏の前の仏で迦葉波カッサパ仏がなくなってから後に、チャチーマという老婆が四人の子と共に迦葉波仏の遺骨を納めたとありますが、その大なる塔を建てる前にその時代の王にその老婆が大塔を建つることを願い出てその許可を受けました。

 しかるにその後老婆と子供とが非常に尽力して大塔の台を築いた時分に、その時の大臣長者の人々は皆驚きましていいますには、かの貧困の一小老婆がかかる大塔を建てるとすると我らは大山のごときものを築かねば釣合の取れぬことだから、これは是非とも中止さすが好かろうと相談一決して王に願うてその次第を述べますと、王は答えて「既に我はかの老婆になすことを許すと命じおわれり。王者に二言なし、いかんともすること能わず」と。

これによって「許成命了之大塔」という名になったのであります。しかしこの塔の出来たのは多分釈尊以後の事であろうと思います。(〔ネパールが文殊菩薩によって開かれた後の事だと思われます。〕)

 毎年陰暦の九月中頃から二月中頃までチベット、モンゴリヤ、シナ及びネパール等から沢山な参詣人が来ます。夏季はヒマラヤ山中を旅行するとマラリヤ熱に冒されますから冬季に向ってから出掛けて来ますのでその中で最も多いのはチベット人であります。チベット人の中でも貴族とか郷士とかいうような参詣人はごく少ないです。一番多いのが巡礼乞食で、これらは糊口くちすぎのために廻って歩くので冬分はこの大塔へ来て居りますが夏になればチベットの方へ出掛けて行きます。

入蔵間道を発見する方法
 ここで私は一番肝腎かんじんな仕事は何かと言えばまずどこからチベットへ入ればよいかということです。ネパールへ来たとはいうもののネパールから入る道も沢山ありますからその道筋についてどこがよいかということを研究しなくちゃあならぬ。

けれどもその事をブッダ・バッザラ師に明かす訳に行かぬ。というのは宿の主人あるじは私はもちろん公道を通ってラサ府に帰りラサ府からシナへ帰るシナ人であると信じて居るからです。よしそれを明かしたところで、この人はやはりネパール政府のチベット語の訳官をして居るのですから、そういうことを知りつつ大王に申し上げない時分には罪になりましょうから、いずれ私が話をすればきっと大王に奏上するに違いない。

さすれば私はチベットに行くことができぬようになりますから、そこで恩人ではあるがブッダ・バッザラ師に明かすことができぬのです。

 ブッダ・バッザラ師は世間の人からギャア・ラマすなわちシナの国の上人しょうにんと言われて居る。というのはこの人の阿父おとっさんはシナ人でネパールへ来て妻君を貰うてこの大塔だいとうのラマになったのです。このラマは旧教派に属して居ますからむろん妻君を貰うても差支えないのです。

ギャア・ラマは私を同郷の人であると言うて大変好誼よしみをもって世話をしてくれました。それはともかく私は外に何とか方法を求めて道を穿鑿せんさくしなければならぬ。幸いにこの大塔へ参詣に来て居る乞食の巡礼者はいずれも皆チベットから出て来た者が多い。

金剛マニ車 一点もの【仏像の天竺堂 仏教美術 中】

これらについて道を尋ね研究することが必要であるという考えから私はそれらの乞食になるべくよけいの金銭を遣るようにしました。それも一度ならず二度も三度も強請ねだらるるままにやるものですから大いに心服して、シナのラマはなかなか豪い方だと言って大いに私を信用するようになりましたからある時は私は「どうだ己おれは名跡へ参詣したいが案内して行ってくれないか。」

「ようございます。案内いたしましょう」という。その道々「お前はチベット人だというがこのネパールへ来るにどの道を通って来たか」と尋ねたところがテンリーから参りましたという者もあるです。

 そのテンリーという道にもやはり三重、四重の関所があって容易に通り越すことが出来ない。で、その道筋の関所の在る所は間道を通っても容易に通れぬと言う。しかし関所の在る所を通って来る時分にはどうしても多分の賄賂わいろを使わなければ通してくれぬということはかねて聞いて居りましたから、私はその巡礼に向い

「お前は乞食の身分で関所のあるテンリーを通って来たというのは嘘だ。どこか間道から来たのだろう。そんな嘘を吐つくに及ばぬじゃないか」と詰なじりますと「あなたはよく御承知ですな。実はこういう間道があってそこを通って来ました。その道はあまり人の通らない所です」というようないろいろの話をするです。

そういう話を聞いて居る間に道筋の幾つもあることが分って来たです。で一人の乞食に聞いた事を材料にしてまた外の乞食に向い「お前こういう間道を通ったことがあるか」と尋ねますと

「その道は通らないけれどもニャアナムの方にはこういう間道があります」というような訳でだんだん取調べて見ますとなかなか道が沢山あります。けれどもネパールの首府からチベットの首府まで達する間にはどうしても一つか二つ位本道の関所へ掛らなければ行かれない。

例えばニャアナムの間道を取ればキールンの関所へは掛からずに済みますがその向うの関所で取り押えらるる憂いあり、またシャルコンブの間道を行けばテンリーの関所で取り調べられるというような都合でどうもうまく脱ぬけることができない。

 いろいろ穿鑿せんさくをしてみましたけれどもどうしてもネパールの首府からチベットの首府へ遠廻りをせずに行く間道はいずれも険呑けんのんです。必ずひと所か二所は関所を通らなければならぬ。そういう場合には巡礼乞食はどうするかというと一生懸命に頼み少しばかりの物を納めて通して貰うのだそうです。

しかし私はチベットの乞食と違い押問答をして居る中には充分こちらに疑いを受けるだけの材料を備えて居りますから、そういう間道を通って行くことは甚だ危険であります。だんだん穿鑿をして居る中うちにここによい道を発見することが出来ました。

しかしこの道は大変大廻りをしなければならぬ。普通なればネパールの首府から東北に道を取って行くのが当り前ですがそうでなく西北に進みネパールの〔国〕境のロー州に出て、ロー州からチャンタンすなわちチベットの西北原に出で、なお西北に進んでマナサルワ湖の方に廻り、一周してチベットの首府に行く道を取れば関所を経ずにうまく入れるという道順が分りました。これ実に私の取るべき間道であるとあらかじめ決定致しました。





posted by 仏教美術ファン at 11:25 | 読み物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チベット旅行記18 偶然盗難を免る

偶然盗難を免る
 ネパールで友達というのはなかなか重いことでほとんど兄弟というほどの意味を持って居ります。それゆえに友達と縁を結ぶ時分にも一種奇態きたいの礼式れいしきがあって、ちょっと婚礼のような具合に沢山御馳走を拵こしらえ多くの親類縁者を呼び集めてその式を挙げます。

委しい事はくだくだしいから申しませんがつまり酒を飲む人ならば互いに盃を取かわし下僕しもべらにも相当の祝儀しゅうぎをやらなくてはならぬ。そう言う式を挙げた上でなくては友達ということを許されない。その紳士と私の持って居る紹介状の主とはいわゆる親友の間柄であります。

 僥倖ぎょうこうにもその紳士が大塔だいとうのラマだといいますから私は「誠に奇遇であります。どうかよろしく頼む」といいますと「就いては明日一緒に行くことにしましょうがあなたは馬か車に乗ってお越しになりますか。」「私はいずれでもよろしい」というと

「あなたのようなよい同伴つれを得たのに馬に乗って話もせずに走って行くのは面白くない。この間大分に面白い景色の所もあるからぶらぶら話しつつ歩いて行ったならばよほど愉快であろうと思うがそうしたらどうでしょう」とこういう話。

「それは願うてもない幸い、そう願えれば誠に結構です。」というのは私の考えではそういう話の中にもネパールの国からうまくチベットに入る道を発見することができれば大いに便宜を得ることであるという考えで、大いに喜んでいよいよ一緒に行くことになりました。ところへその紳士の下僕しもべが二人真っ蒼さおになって駈け付け

「大変です、泥棒が入りました」というような訳で老僧と紳士は慌あわてて帰ってしまいました。衣類と三百五、六十ルピー入って居た鞄かばんを一つ取られたそうです。後に宿屋の主人に聞きますとかの泥棒は大変私の物を盗もうとて、うかがって居たのだそうです。私の難を紳士が受けたようなもので、まことにお気の毒でござりました。

カトマンズまでの行路
 その紳士の名はブッダ・バッザラ(覚金剛かくこんごう)その老僧はラサ府レブン大寺の博士でマーヤル(継子ままこ)というなかなか剽軽ひょうきんなお方でした。一月二十五日早朝から出立して平原を北に進んで行きました。翌日にネパール国境最初の関所でビールガンジという所に着きて、そこで私はチベットに居るシナ人として通行券を貰いました。

その翌出立しゅったつしてタライ・ジャンガルという大林だいりんでヒマラヤ山の玄関というべき入口より少し前の村で宿りまして、その翌二十八日大林入口のシムラという村を過ぎて幅はば四里の大林を一直線に横ぎってビチャゴリという山川の岸にある村に着きて宿りました。

夜の十時頃日記を認したためつつ荒屋の窓から外を眺めますと、明月皎々こうこうとして大樹の上を照らして居るに河水潺々せんせんとしてなんとなく一種凄寥せいりょうの気を帯びて居ります。時に大地も震動しんどうしそうなうら恐ろしき大声が聞えました。

なんの声かと宿主に尋ねますとあれは虎が肉を喰ってから川に水を飲みに来て唸ってる声であるとのことを聞いて思わず一つの歌ができました。
月清しおどろにうそぶく虎の音に
    ビチャゴリ川の水はよどめる

 その後二日間溪流けいりゅうあるいは林中りんちゅうあるいは山間さんかんを経へてビンビテーという駅に着きました。この駅までは馬車、牛車、馬も通りますけれども、ここからは急坂ですから歩行かあるいは山籠やまかごでなくば行くことが出来ませぬ。私共はやはり歩行で朝四時から大急なる坂を上りましたが、ちょうど一里余上りてチスパニーという関所に着きました。

ここには税関があって出入の物品に課税して居ります。また砲台ほうだいがあって守備の兵士も大分居ります。そこで我らは取調べを受けましてチスガリーという峰の頂上に上りましたが、ここから始めて白雪の妙光皚々がいがいたるヒマラヤの大山脈が見えます。これはダージリンあるいはタイガヒルなどで見た類たぐいでありませぬ。非常に壮観なものであります。

 その峰を超えてその夜はマルクーという駅に宿りまして、翌二月一日早朝チャンドラ・ギリーすなわち月の峰に上りまたヒマラヤ山脈の妙光を見まして少しく下ると、山間におけるネパール国の首府カトマンズ付近の全面が見えます。

同行のブッダ・バッザラ師は山原中に二つの大金色を虚空に放つところの大塔を礼拝して私に示していいますには、かの一つの大塔は迦葉波仏陀カッサパぶっだの舎利塔で他の一つは尸棄シキー仏陀の舎利塔であるといわれたから、私は大いに喜んで礼拝致しまして、その急坂を下りおわりますとブッダ・バッザラ師の出迎えとして馬二疋ひきに人が四、五名来て居りました。

私共はその馬に乗りその村の近所へ着きますとまた二十四、五名の人が迎えに来ました。セゴーリという停車場からここまでおよそ五十里ほどであります。



posted by 仏教美術ファン at 07:00 | 読み物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

経筺 銅造鍍金 彫金仕上げ

経筺 銅造鍍金 彫金仕上げ

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経筺 銅造鍍金彫金仕上げ 一点もの
サイズ:奥行き7.5cm 幅19cm 高さ12cm

お経を入れる筺です。
法輪や十字羯磨などの文様がまさに
絶品というべき仕上がりの作品です。


posted by 仏教美術ファン at 11:45 | 仏像 その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする